茶道の歴史を少しご紹介します。
茶は兵亜印字代に中国より日本に伝播して、鎌倉時代には抹茶が薬用に用いられ、次第に嗜好品として喫茶の習慣が広がっていきました。室町時代には中国からの舶来品”唐物”を座敷飾りや道具に用いて茶の湯が成立、安土桃山時代にいたり、千利休が茶の湯を大成します。以来400年以上、茶の湯は日本人のこころの豊かさと楽しみをもたらしています。
【栄西禅師】
略歴
1191:宋より帰国。茶種を持ち帰る。
1211:「喫茶養生記」を著す。禅と茶。
”闘茶”・”唐物”の流行。
1397:足利義光、金閣寺造営。
茶の湯、生け花が流行。書院茶。
日本における「お茶」は鎌倉時代、栄西禅師によって茶の実が中国から伝えられたのが初めだと言われています。
お茶は最初、禅僧の薬として伝わったのですが、鎌倉時代も後期になると「闘茶」という、飲んだお茶が栂尾
(とがのお)産の本茶であるか、それ以外の茶であるかを当てるゲームが流行しました。
当時の大名たちの間で大流行し、やがて茶道に使う「茶道具」と言われる美術品が重宝され始めます。
「茶入」と呼ばれる唐物の小壺などは、一国の領土と同じ価値として扱われたのですから、当時は茶道具が非常に珍重されていたことがわかります。そして「わび」「さび」といった日本固有の感覚を産み出すこととなりました。
【村田珠光】
略歴
侘び茶を起こす。一休和尚(大徳寺)。
戦国時代、堺衆と茶の湯。
【武野紹鴎】侘び茶の心を新しい茶道具で表現します。
略歴
1533:奈良の漆屋、松屋、久政・久好・久重の三代、百数十年にわたる茶会記録「松屋会記」の初年記録。
1535:武野紹鴎、堺に戻り、堺文化の担い手として指導的役割を果たします。
村田珠光は一休和尚に参禅し、庶民の茶に禅の精神を取り入れ「侘び茶」の祖とされています。
小間(四畳半以下)や広間(四畳半以上)の基本となる四畳半の茶室を考案したのも珠光でした。
珠光によって構築された「侘び茶」を武野紹鴎が受け継ぎ、侘び茶を更に発展させました。
「わび」「さび」は、日本を代表する世界的な言葉ですが、それを説明するのはなかなか難しいです。
過去にベストセラーになった本がありましたね。
こうして発展した「侘び茶」は、後に千利休によって大成されたと言われています。
【千利休-表千家、裏千家、武者小路千家】
1539:武野紹鴎に師事。
1548:堺の豪商、天王寺屋 津田宗達・宗及・宗凡の三代にわたる茶会記録「天王寺屋会記」初年記録。
1568:千利休、今井宗久、津田宗及の三人が、茶頭として織田信長に仕える。
1582:利休、豊臣秀吉の茶頭となり、茶頭としてのみならず秀吉も側近として重要な立場に立つ。
完成された侘び茶。
1585:利休、秀吉が関白になるのを記念する茶会に、居士名「利休」で出席。
1587:”北野大茶湯”が催される。
1592:利休、秀吉と対立し、二月二十八日、切腹。
【古田織部】大名たちの茶と”堂上茶”。
千利休によって完成した茶道は、利休から古田織部ら武士の間にも広まりました。
また、利休が豊臣秀吉の怒りに触れて切腹してから後も、孫の宗旦らによって千家茶道が伝わりました。
利休に茶を学んだ織部たちも自分の茶を持っており、また織部の弟子の遠州も自分なりの茶風を展開してきました。 しかし、この頃になると、「遠州流の茶道」「石州流の茶道」といったように、「流儀」を存続させよう、という 意識に変わってきたようです。千家においても、宗旦の三人の息子たちによって、「表千家」「裏千家」 「武者小路千家」といった三千家が興されました。
これらの流儀の茶道が江戸時代の長い間熟成され続いてきました。
【小堀遠州-遠州流、片桐石州、後西天皇、金森宗和、野々村仁清】
1612:小堀遠州、大徳寺弧蓬庵の茶室、亡筌を創設。
1660:後水尾天皇、修学院離宮を完成。桂離宮。
1868:明治維新によって武家階層の支持者を失い、茶の湯衰退。
【益田鈍翁】荒廃しつつあった仏教美術や東洋の古美術を収集し、茶の湯に入る。
1885:裏千家十一世家元、玄々斎宗室によって立礼式始まる。
1895:新興の政財界人によって、茶の復興始まる。
1912:原三渓、大正初年頃より、茶器の収集に尽力。
1945:第二次世界大戦後、女性を中心に未曾有の茶道人口が出現。